カジューのインド徒然草

インド(ニューデリー在住)。旅行記を中心にインド生活を綴る。ヒンディー語も勉強中。20代中盤のインド大好き若手駐在員の徒然なる日常を書き記します。

ヒンディー語から学ぶインド人の精神性

『言語を学ぶことはその言葉を話す人の思考の枠組みを学ぶことだ。』

というと、いかにも取ってつけたようなアカデミックな言説であるが、言語を学ぶことが好きで、どんなことでも無駄な(?)思考を巡らせてしまう私にとって、この言説はとても面白い。母国語は勿論日本語で、英語の他に、大学時代はインテンシブコースでドイツ語を学んだし、ドイツ語習得の為にドイツのボンに短期で留学していたことも有る。殆ど忘れてしまったが。。。

そして今、ヒンディー語を鋭意学習中。日本語と英語は正直もう深く振れ過ぎてしまって新しい発見を見つけるのは難しいのだが、新しい言語を学んでいると色々な事に気づくことができる。これからも学習を進めれば進めるほど色々な発見があると思うが、まずは最近感じたことを一つだけ。

 

「落とす」と「落ちる」

最近インド人の精神性や思考の枠組みを的確に表しているなと感じたのは、「落とす」と「落ちる」の関係について。例えば私が今スプーンを持っていたとして、それが意図的にせよ意図的でないにせよ、手から離れて床についたとする。

 

日本語ではどうなる?

日本語でこの事象を説明するとき、ひとつは上にもう書いてしまっているのだが、色々な言い方がある。自分でも考えると思考の沼に嵌ってしまうのだが、自分が握っていたスプーンが、手から離れて床についた場合、咄嗟に出る言葉は「スプーン落としちゃった」ではないだろうか。勿論ここに隠れている主語は(私が)である。

スプーンが落ちるという事象に自分の行動が関わっていない場合、または関連性が薄い場合、自分の行動が引き起こした何らかの事象の二次的な結果としてスプーンが床に落下した場合。または事象を客観的に説明する場合は、「スプーンが落ちた」と言うだろう。例えば、意図的ではないのだが机にお家あるスプーンを肘で落としてしまったとき。自分では気づかないうちに、お皿を動かした結果としてスプーンを落としてしまったとき。でも、どこか他人事感というか、自分は悪くないという裏の意味が読み取れてしまう気がする。若しくは他の人がスプーンを落とした際に、相手に気を使っていう場合。「(あなたが)スプーン落としましたよ」よりも「スプーン落ちましたよ」の方が多分角が立たない。何故なら、言い方を変えることによって暗に「(あなたのせいとは言っていませんが)スプーンが落ちましたよ」とニュアンスを変えているのだろう。

 

多分、日本で小さな子供が自分のスプーンを落としてしまい、お母さんに「スプーンが落ちちゃった」と報告したら、「いや、あなたがスプーンを落としたんでしょ?」と暗に人のせいにするな、と軽く怒られてしまうこともあるのではないか。

言語学的に正しいかは全く分からないが、私は「スプーンを落とした」と「スプーンが落ちた」の間にこのような違いが有りそうな気がする。

 

インドでは?

ここまで書いたら分かると思うが、インドでは基本的にどの様な状況でも、「私の手からスプーンが落ちた」という言い方をする。ヒンディー語でいうと、以下のような感じになるだろう。

「Mere(私の) hath(手) se(から) chammach(スプーンが) gir gaya(落ちた)」 

勿論、文法的には「私がスプーンを落とした」という言い方も出来る。でも、ヒンディー語でこう発言すると、「私が(意図的に)スプーンを落とした」という意味になり、嫌がらせの為に落としたのか、ムカついてぶん投げたのか、そのようなシチュエーションを想像してしまう。

 

なんかここにインド人の精神性というか、考え方の枠組みを感じることが出来ませんか?他責思考というか、何か都合の悪いことが起こった時は、自分ではない他の要因が悪さをしたのだ、という考え方が見えてくるような気がする。勿論これがすべてを表すわけではないけれども、インド人を理解する方法のとっかかりとしては結構面白いんじゃないかな、と思うのだ。また、こんなことを考えていると自分が普段使っている日本語に就いても思考をめぐらす事が出来るので、それもまた面白い。

これからもヒンディー語を学ぶ中で、面白い気づきが有れば自分の備忘の為にも記していきたいと思う。

 

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